プロジェクトの発足から最初の1年について

1.はじめに

2011年8月15日、福島市。
事故を起こした福島第一原子力発電所から北西に60kmほど離れた福島市の西部に位置する市営の公園「四季の里」の芝生は、一面色とりどりの布が縫い合わされた巨大な大風呂敷で覆われた。総面積はおよそ6000?。

福島県二本松市出身の音楽家、遠藤ミチロウ、福島市で十代を過ごした音楽家の大友良英、福島市出身で現在も福島市在住の詩人、和合亮一の3人が発起人となり共同代表として立ち上げた「プロジェクト FUKUSHIMA!」が主催し、入場無料の野外音楽フェスティバルが開かれた。盆地である福島市の夏らしい蒸し暑さの中、時折雷雨に見舞われる不安定な天候にもかかわらず、県内外からのべ約1万3000人が来場し、インターネットで生中継したUstream番組、DOMMUNE FUKUSHIMA!をのべ25万人が視聴した。集まったボランティアスタッフは200名ほど。坂本龍一をはじめとする20組の音楽家、ミュージシャンらも手弁当で集まり、ステージでFUKUSHIMAの状況に対してそれぞれのパフォーマンスを行った。

筆者自身も福島市出身であり、プロジェクトFUKUSHIMA!の活動には発足当初から参加してきた。その立場から、震災を受けてプロジェクトFUKUSHIMA!がどのように立ち上がり、この1年どのような活動が行われてきたかをレポートする。

プロジェクトFUKUSHIMA!実行委員会
山岸清之進

2.プロジェクト始動の経緯

第4回中原中也賞を受賞した詩人であり、福島市に隣接する伊達市の高校に国語教師として勤務する和合亮一は、2011年3月11日、職場で被災した。自宅のある福島市の震度は6弱。市内でもいたるところで電気やガスなどのライフラインがストップする中、頻発する余震に脅かされながら、故郷福島が「壊滅する」かもしれないという意識で自宅から和合がツイッターを通して発信を始めたのは震災5日後のことである。
「詩の礫」として毎晩のように綴られた言葉は、始めは具体的な避難所の様子などを描きながら、次第に抽象的な、詩のような言葉へと変化していった。

東京のスタジオで録音中に被災した大友は、今も両親が暮らし、自身も10代を過 ごした福島の様子を知りたい一心で、夢中でブログやツイッターを検索し、福島の生 の情報を集めようとしていた。その中で出会ったのが、和合の発信していた「詩の礫」の一連の言葉だった。「胸に突き刺さるようだった」と大友が語る和合の言葉に触発されるように、ツイッター上で連絡を取ったところ、大友が高校の先輩であることを知っていた和合からすぐさま返信があったという。

一方もう一人の共同代表を務める遠藤ミチロウは、3月11日午後2時46分、九州でのライブツアーに向かう機上にいた。飛行機を降りテレビの報道で震災と震源が故郷 福島に近いことを知った遠藤は、ライブツアーの合間も一睡もせずテレビにかじりつ いて原発と故郷の状況を窺っていたという。日本全国をくまなくまわり、年間100本以上のライブを行っている遠藤は、ツアーの先々で福島に行ったというミュージシャン仲間から地元で流布されている風評被害のことを聞くなどし、自分たちが福島に入って無料の音楽フェスティバルを開催したいと思うようになっていった。そして遠藤が連絡を取ったのは、同じ福島高校の後輩である大友だった。都内で大友に会った 遠藤は、福島で8月15日に音楽フェスティバルを開催したいと打ち明けた。遠藤が 8月15日にこだわったのは、勿論その日が終戦記念日であり、いわゆる戦後が始まった日と捉えていたからである。豊かさを追い求めた先に原発を生んだ戦後日本社会が、震災と原発事故により崩れ去った現在の状況を、遠藤は戦争になぞらえることで、「戦後自分たち日本人が作り上げてきた社会をもう一度検証しなおす」契機にしたい、と考えた。この時大友は遠藤のフェスティバル開催の提案に対しては回答を留保し、逆に 一旦福島に行って現地の人々と話してから結論を出すことを提案した。ここで考えておきたいのは 2人とも高校卒業とともに福島を出てからは、お互いほとんど福島を振り返ることはなかったという点である。にもかかわらず、これほどまでに真剣に福島に取り組むことになろうとは夢にも思ったことがなかったという。

4月に入ってはじめて実家のある福島市入りした大友は、市内で和合に初めて会い、遠藤からの提案である夏の福島でのフェスティバル開催の是非を相談した。会話を重ねるうちに、最初は懐疑的だった2人は、次第に開催に傾いていった。

この最初の福島滞在中に、大友は福島の知人たちと会い、「心から血を流している」ように感じたという。これは筆者自身が福島の友人たちと会って話した印象とも同じ である。原発から北西に60kmほど離れた福島市では、距離の割に放射線量が高いことは次第にわかってきてはいるものの、果たしてその数値をどう判断すべきなのか、 人体にはどういう影響を与えるのか、信用に足る情報はほとんど無いに等しかった。「ただちに影響はない」「安全・安心」の政府発表を追従するメディア報道や行政の発行する広報誌の情報が広がる一方で、原発付近では住み慣れた土地を失い、避難生活を余儀なくされる者もいれば、福島市などでも幼い子どもを抱えた家族を中心に、避難する人々、やむを得ない事情で残る人々の間でも分断が起こり、福島に暮らす人々は皆極度の不安とストレスの中で、悶々としていた。

そのような状況下で、フェスティバルの開催を一旦は決意したものの、大友を始めスタッフの間では本当に開催できるのか、全くといっていいほど自信はなかった。仮に大きなフェスティバルが開催できなかったとしても、客をまったく呼ばずにインターネットで演奏だけを中継するプランや、福島駅前でゲリラ的に遠藤と大友が路上ライブを敢行するプランなど、冗談とも取れないアイディアもそれなりに現実的に思えた。それでも、この福島のありのままの姿を世界に向けて発信していかなければならない、不名誉になってしまった FUKUSHIMAの名を、新しい希望が生まれるポジティブな名として未来に伝えていきたい、との思いから、5月7日には福島市内でプロジェクト立ち上げの総会が開かれ、県内外から50人以上の有志が集まった。そして翌8日、市内のホテルの会見場にて記者会見を行い、遠藤、大友、和合の代表3名によってプロジェクト FUKUSHIMA!の旗揚げと、8月15日にフェスティバル開催に向けて動き出すことが宣言された。

会見で遠藤が読み上げたプロジェクトとしての宣言の一部を紹介しておく。

「故郷を失ってしまうかもしれない危機の中でも、福島が外とつながりを持ち、福島で生きていく希望を持って、福島の未来の姿を考えてみたい。そのためにも、祭りが必要です。人々が集い、語らう場が必要です。フェスティバルを通して、いまの福島を、そしてこれからの福島の姿を、全世界に向けて発信していきます。FUKUSHIMA!をポジティブな言葉に変えていく決意を持って」

3.科学者との協働によるプロジェクト

プロジェクトの始動が宣言された一方で、当時の福島市の放射線量は、市中心部で1.5?Sv/h 程度と、高い値を示していた。さらに、福島市と第一原発の間に位置する飯 舘村が 20km 圏外にもかかわらず高い線量から計画的避難区域に制定されたり、県内 の学校の線量を年間20mSv まで認めるなどの文部科学省の発表に対して大きな混乱が 起こるなど、相変わらず事態は混迷を極めていた。

そんな時に放送されたある番組が、大友らプロジェクトスタッフにとって一筋の光 となった。5月15日に放送された NHKのETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」。番組では、若き放射線衛生学の研究者、木村真三博士が、国内の研究者のネットワークとともに、福島県内2000kmを自ら走り、詳細な汚染地図を作成する様子をドキュメントしていた。汚染の実態をまざまざと示されることはつらい現実をつきつけられているようでありながら、やっと本当に信用できそうな情報が出てきたことに、大友は「暗闇にともった蝋燭の明かりのように見えた」と語る。番組スタッフを通して木村真三博士と会い、感謝の言葉を伝えるとともにプロジェクトへの協力を依頼すると、木村博士は快諾し、「やり方はあります。対策をすれば開催できます」と応 じた。その時に大友が見せた涙を、私は忘れることはないだろう。フェスティバルの開催を宣言したものの、大友のもとには非難の声が届いていた。福島に人を集めるとは「殺人行為だ」とまで言われるほど厳しい批判もあったという。開催すれば少なからず被曝の危険が伴い、開催を中止すれば、地元で暮らす人々に対して、その場所が人 が住めない場所だということを一ミュージシャンが宣告するようなものだと、どちらに転んでも苦しい結果が待っている。想像を絶する重圧の中で苦しんでいた大友にとって、科学者・木村真三博士の言葉は、何にも増して心強いものだったと言えるだろう。この段階で信頼できる科学者が加わったことで、プロジェクトはようやく前向きに転がりだしたように感じられた。

4.フェスティバル開催に向けた具体的な動き

会場の線量測定〜福島大風呂敷
 開催に向けて、事務局がまず行ったのは、フェスティバル開催予定地である福島市西部の公園、四季の里の放射線量測定だった。6月23日、会場の環境を確認しながら、木村真三博士とともに測定した結果、およそ0.5〜0.6?Sv/hと、当時の福島市内では 比較的低い数値であり(市中心部はこの頃1.2〜1.3?Sv/hで推移)、会場の多くの面積を占める芝生に何らかの対策を施すことで、開催は可能であると判断した。

その対策として、線量測定の際に木村博士が提案したアイディアに、公園内の多くの面積を占める芝生を布またはビニールシートで覆うというものがあった。アスファルトなどに比べ芝生には放射性物質を吸着しやすいという性質があるため、布やシートを敷くことで表面被曝(体の表面に放射性物質が付くこと)を防いだり、靴の裏などに付着した放射性物質を持ち帰って拡散させてしまうことを防ごうというのだ。放射 線自体は布を通過してしまうので、布を敷いたとしても空間線量は下がるわけではない。が、フェスティバルとして拡散を防ごうとしているという姿勢を示すことは重要なメッセージになる、との木村博士のアドバイスから、線量の公開に加えて芝生に布などを敷く対策を取ることで開催を目指すこととなった。

そこで、大友とも展覧会で協働した経験があった水戸出身の美術家・中崎透と、福島在住の建築家・アサノコウタの2人をディレクターにして、「福島大風呂敷」のプロジェクトがスタートした。「大風呂敷」という言葉はともするとネガティブな意味に取られるかもしれないが、先の見えない状況の中、福島で1万人規模のフェスティバルを開催するという、まさに「大風呂敷」を広げた決断という皮肉に掛けつつ、その大風 呂敷に包まれるに見合うだけの中身をこれから作っていきたいという意気込みを込めて、タイトルを「福島大風呂敷」とした。

とはいえ、公園内の芝生の面積は広大である。しかもフェスティバル前日の設営は不可能という制約があったため、事前に布を募集し、予め縫い合わせた10mまたは5m四方の大きな布を作っておくことにした。そうすることで、フェスティバル当日はそれらを芝生に隙間なく敷き詰めることは比較的容易になる。

ツイッターや新聞等での呼びかけに対して、地元だけでなく全国から様々な布きれが送られてきた。愛着を持って使っていたり大切に保管されていたのだろうと感じられる布、刺繍や直筆で心温まるメッセージが書き込まれた布もひんぱんに見つかるなど、送られてくる布には特別な想いを感じるものが多く、箱を開ける度にプロジェク トメンバーもどれだけ勇気づけられたことだろうか。

元工場だったという福島市内の大友の実家を拠点として、数十名のボランティアスタッフが集まり、送られてきた布をミシンで縫い合わせる作業が急ピッチで行われた。近所の主婦から、ツイッターを見て駆けつけた他県のボランティアまでが、時折の余震の中、3週間ほどに渡り昼夜を問わない縫製作業を続けた。

出演者たちへの放射線講座
フェスティバルに出演するミュージシャンたちの発言は、来場者やファンを中心に 強い影響力を持ち得るものである。そのため、フェスティバル1か月前には、都内で出演者やスタッフ向けの放射線の勉強会を開くことになった。木村真三博士を講師に招き、2時間以上にわたって放射線についての基礎的なレクチャーや、木村博士が自ら調査したチェルノブイリと福島の現状についての講義が行われた。普段はステージ にあがって多くの視線を浴びている名だたるミュージシャンたちが、ずらりと並んで席に着き真剣に木村博士のレクチャーを受ける様子はある意味大変貴重で興味深いものだったという余談はさておき、参加者からは多くの質問が飛びだし、放射線の問題に対する高い関心がうかがえた。

食品汚染と内部被曝
フェスティバル会場に用意する飲食エリアへの出店は、地元の生産者・販売者へ公 募する形で募集をかけることになった。野外フェスティバルで飲食の出店があることは必ずしも珍しいことではないが、今回のフェスティバルは開催地が福島であることから、出店募集についても多くの議論を重ねた。プロジェクトとして食品汚染による内部被曝の問題は極めて重要と考え、福島県産の農産物を販売または調理に使用する出店者には、使用する食材の放射能測定を行い、結果を表示して販売してもらうようにした。具体的には、測定を行ったブースには結果が書かれた公認証を発行し、「公認 ブース」として来場者にわかるように掲示するようにした。

表示をすることで買ってもらえなくなる可能性もあり、出店者から敬遠されるのではという懸念もあったが、事前説明会なども開催し理解を求めると、出店者からは「しっかり測ることで安全だということを証明して販売したい」という声もあがり、販売する福島県産食材はすべて事前に測定することができた。

測定の結果、福島県産食材を扱う11の出店者のうち10店の豚肉、きゅうり、トマトなどの食材からは不検出だった(※)。唯一検出されたのは、福島の名産物である 市内産の桃で、セシウム134 と137をあわせて23ベクレル/kgだった。日本の暫定規制値500ベクレル/kgよりもはるかに低い値、かつ木村真三博士のアドバイスで公認証 に並記したウクライナの果物の規制値 70ベクレル/kgよりも十分に低い値で、販売にあたっては問題ないと判断した。きちんと数値を示して販売することで購買者の理解を促し、販売者・生産者として誠実であろうとする姿勢は、プロジェクトとしても、桃の生産者としても一致した考えだった。

※福島県産の食材の測定のため、各出店者に 2kg の食材提供を依頼し、実行委員会の費用負担にて測定を行った。測定は福島市内の環境分析研究所にて、定量下限値5ベクレル/kgの精度で行われた。

5.フェスティバルFUKUSHIMA!

2011年8月15日、福島市四季の里および県営あづま球場を会場に開催されたフェスティバルFUKUSHIMA!について、午前9時から夜9時までの1日のプログラムごとに、レポートしていく。

福島大風呂敷
8月15日、午前9時。フェスティバルは、公園内の多くを占める芝生に「大風呂敷」を広げることから始まった。傍らでは、専門のスタッフにより、当日の会場放射線量測定も行われた。

およそ2時間をかけて、総面積6000?にもおよぶ大風呂敷が、芝生の上に敷き詰められた。色とりどりの大風呂敷が会場一面に広がる光景は、壮観の一言だった。 表面被曝を防ぐと同時に、持ち帰りによる拡散を防ごうとするメッセージとしての大風呂敷は、セシウムが降ってしまった特異な状況下で開催されるという誰も経験したことがないフェスティバルであることを象徴するものだった。そして、その足下をよく見ると、そこかしこに布を送った人のメッセージが書き込まれている。色とりどり につなぎ合わされた布は、様々な個性を持った個人がネットワークのようにつながることで推進され実現されてきたフェスティバルを体現しているようにも見えた。

福島音楽解放区
大風呂敷が敷き詰められた会場では、11時〜14時の間、大友の提案による「福島音 楽解放区」と題したこのプログラムが実施された。プロ・アマ問わず公募により集まった60組を超える個人・グループが、広い会場内に散らばって思い思いのスタイルで楽器を演奏したり、オブジェを展示したりと様々なパフォーマンスを披露した。

大友や遠藤ら主催者側の演奏者たちも加わってゆるやかに始まった音楽解放区だったが、まだ一般客も少ない午前中は、参加者たちはゆったりとした雰囲気の中、好きな場所に陣取ってバラバラに演奏していた感が強かった。特筆すべきは、通り雨が降 り出した午後の時間帯だろう。屋根がかかる場所が少ない会場内でそれまでバラバラに演奏していた演奏者たちは、雨宿りとばかりテントや大きな木立の下に小さく集まることとなった。そこで初めて参加者の間に自然に会話が生まれ、楽器を交換しあったり、誰からともなく演奏が始まり即興的なセッションが生まれていった。個がばらばらだったところから、雨によって寄り添うように集まり、音を奏で合う様子は、大友が漠然と思い描いていた「解放区」の一つの理想的な状態に近かったと言えるだろう。 雨が生んだ予期せぬ幸運に思われるその風景を見て、大友は「フェスティバルが成功する確信を得た」とその時の印象を語っている。

飲食エリア
フェスティバル会場の一画に設けた飲食エリアでは、公募によって集まった地元の飲食店・生産者ら17組が出店した。前述の通り、そのうち11組の福島県産の農産物を販売または調理に使用する出店者は、事前に使用する食材の放射能測定を行い、「公認ブース」として、公認証を掲げ結果を表示して販売した(ただし、公認エリア外でのもともとの公園の出入り業者も少なからず福島県産食材を販売しており、一般客 に公認の有無があることが十分伝わったかどうかは率直に言って疑わしい)。ほとんど の公認ブースでは不検出の掲示だったが、唯一、福島市内の農家が生産する桃からは23 ベクレル/kgのセシウム(134と137の合計)が検出された。双方合意の上、掲示を行ったが、数値を掲示した結果、売れ行きに結びつかなかったことも事実であり、食品汚染のレベルについての理解の相当の深まりが必要であると同時に、国の規制値設定における信頼度の面での課題が非常に大きいと感じられた。皮肉なことに2011年の桃は、天候に恵まれ、例年にない甘さの特別に美味しい桃だった。現実とは裏腹に、籠の中で美味しそうに輝くような赤い桃が今も目に焼き付いている。

オーケストラFUKUSHIMA!
大友の発案による一般市民を交えた巨大即興オーケストラ「オーケストラ FUKUSHIMA!」の演奏は、午後の明るい時間に開催された演目であるにもかかわらず、ある意味でフェスティバルのクライマックスの様相を呈していた。「オーケストラ」の言葉からイメージされるいわゆるクラシックのオーケストラとは全く異なり、楽器の種類も様々だ。バイオリンなどのクラシック楽器はむしろ少なく、ギター、ウクレレ、管楽器、様々なパーカッション、民族楽器、たらいやフライパン、果ては机までが登場するなど、あらゆる種類の、音のなる”楽器”が用いられたオーケストラとなった。 参加の条件はたった2つ。音が鳴らせることと、事前に開催されたスクール FUKUSHIMA!「音楽の学校」へ参加すること。参加者はおよそ半数が福島県内、残り半数は県外からで、北は北海道から南は大分まで、年齢では4歳の子どもから60歳以上の老人まで、さらには普段楽器をまったく触っていないアマチュアから、坂本龍一、芳垣安洋、植村昌弘ほかのプロフェッショナルのミュージシャンまで、総勢220名ほどが参加した。そんな混成メンバーによる即興のオーケストラは、およそ30分ほどの間、指揮を執る大友の簡単なサインのもとで、時に統制を保ったリズムを奏で、時に不協和音のノイズとなった音の塊を福島の広い空にぶつけた。最後には 2000人ほどに見える聴衆たちもその輪に加わり、会場はひとときの祝祭に満ちた空間となった。

なお、福島在住のオーケストラFUKUSHIMA!メンバーは、フェスティバルの後、水戸や東京で数度にわたって演奏を行っており、プロジェクトFUKUSHIMA!の活動の広がりを感じさせる。

福島群読団2011「福島連詩」
オーケストラ FUKUSHIMA!の興奮も冷めやらぬまま、続けざまにメインステージ で行われたのは、和合の発案による「福島連詩」。事前に開催したワークショップ、スクールFUKUSHIMA!「詩の学校」を通して作られた連詩を、40名の参加者自身が 群読するというものだった(群読とは、歌で言えば合唱のように、集団で詩を朗読する こと)。

「詩の学校」では、まず初回に参加者たちが3.11以降の生活を振り返り、5〜6人のグループに分かれて経験を共有し、3行・5行の詩を一人ずつ交互に書き連ねていく連詩の形式で、福島への思いを詩の言葉で表現した。2回目には、参加者たちの 連詩を和合が再構成した「福島連詩」を、参加者自身が全員で、時に一人や少人数で読み進める群読の練習を行い、フェスティバル当日に備えていった。興味深かったのは 参加者の属性だ。「音楽の学校」とは対照的に、「詩の学校」の参加者は全員が福島在住者または出身者だった。だからこそ、震災に見舞われた福島へのそれぞれの強い思 いが、連ねられた言葉のそこかしこに感じられる。特に、ワークショップの冒頭に行われた各人の自己紹介で、震災以来胸にため込んできたのであろう様々な想いを幾人かは涙を流しながら語るのを見て、同じように震災以降の福島で暮らしてきた運営スタッフも目を真っ赤にしながら聞き入っていたことが特に印象に残っている。

参加者の言葉だけで構成された20分ほどの群読の最後に、和合が自ら書き加えた言葉が一節だけあった。「未来は私たちの手で」。フェスティバルのコピーにもなっているこの言葉が、原発事故の渦中にある福島で暮らし、ワークショップで涙の自己紹介 をしていた参加者たちによって発せられたことは、ともすると奥手で遠慮深く自分の考えをなかなか表明することのない県民性を知る筆者として、特に感慨深いものだった。そう、未来は私たちの手で作れるのだ。自ら考え、自ら行動しネットワークを構成していくこと。それこそ、プロジェクトが発信したメッセージそのものであった。

3つのステージ〜メルトダウンFUKUSHIMA!
 四季の里と、1km ほど離れたところにある県営あづま球場の2つの会場に、「ウォーターステージ(とサブステージ)」「フラワーステージ」と「スタジアムステージ」という3つのステージが設置された。少々刺激的に「メルトダウン FUKUSHIMA!」と 題し、夕方からの時間帯は各ステージにて坂本龍一、七尾旅人、原田郁子、遠藤賢司などのミュージシャン、頭脳警察、グループ魂、渋さ知らズなどのグループや地元福島のバンドなど、総勢20組のミュージシャンたちによって、いわゆる野外音楽フェスティバルらしいパフォーマンスが展開された。すべての名前をここで挙げることはできないので出演したミュージシャンについてはウェブサイトを参照してほしい。

スタッフのみならず出演するミュージシャンまでもみな手弁当で集まるという点は、このフェスティバルがミュージシャンたちにとても特異なものであったことを示す一つ のエピソードといえるのではないか。

中でも最も注目を集めたのが、和合亮一、大友良英の2人の共同代表に、坂本龍一が加わったこの日限りのセッションである。和合の「詩の礫」の鬼気迫る朗読に、大友のギターと坂本のピアノの音響が即興的に絡まり合う。50分を超える長さにもかかわらず数千人の観客が固唾を呑んで身動きもせず聴き入っていた。2人の音楽家の即 興的な演奏に影響されてか、和合の詩の朗読も次第に原稿を見ずにまったくの即興で言葉を紡いでいくスタイルに変化していった。終演後に和合本人も語ったとおり、も との「詩の礫」の原稿に加え、「福島」と「命」という言葉が多く連呼されたパフォーマンスは、福島県民にとって震災以降の故郷を深く振り返らせるものであったと同時 に、県外からの参加者にとっては、震災と放射能で二重三重に苦しめられている福島の人々の叫びをまさに肌で感じさせる迫力があった。

一方、通常の野外フェスティバルにみえるラインナップに、「木村真三報告会」が組み込まれていることは、この時期に福島市で開催されたフェスティバルならではのものと言えるだろう。四季の里会場のメインステージに登壇した木村真三博士は、10年以上前から続けてきているチェルノブイリの調査の経過を、現在の福島の状況と比較しながら報告した。中でもチェルノブイリから西に70kmほどのところにある高汚染地域、ナロージチ地区で診療所を開設する所長夫妻が涙をにじませながら語った福島の人々へのメッセージビデオは、福島第一原子力発電所の事故に見舞われた福島の人々への強烈なメッセージとして伝わったのではないだろうか。最後に木村博士は、福島に移住し、研究の拠点を構えることを告げ、聴衆はその宣言に熱い拍手で応えた。

最後に、8 月15日の開催にこだわった遠藤ミチロウの渾身のステージについては、 ぜひ記述しておきたい。現代の福島、ひいては日本が置かれた状況を「戦争に直結して」考えたという遠藤が、この日のステージで見せたパフォーマンスでは、そのことを声高に叫んだわけではなかった。だが、伝説のパンクバンド、ザ・スターリンを象徴する赤いメガホンを高々と掲げて鳴らされたサイレン音や、還暦を過ぎたにもかかわらず驚くほどに鍛え抜かれた肉体を酷使して叫び、走り回る遠藤の姿は、原発事故が明らかにした問題を私たちに鋭く突きつけると同時に、どこかあたたかな未来に向け た希望を感じさせる優しさを持っていたと、筆者には感じられた。

世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!
フェスティバルは、福島を中心にしながらも世界同時多発と銘打ち、8月15日前後 に各地での開催を呼びかけていた。プロジェクトの主旨に賛同した個人、グループ、ライブハウスなどが手を挙げ、国内は北海道から沖縄まで、海外もアジア、ヨーロッパ、北米、南米と、規模の大小を問わず世界14ヶ国・地域で約90件の「FUKUSHIMA!」を掲げたイベントが行われた。残念ながら記録の写真・映像が少ないのだが、プロジェクトFUKUSHIMA!のウェブサイトに掲載しているマップでその同時多発の広がりを感じることができる。

6.フェスティバル以外の活動

規模、話題性ともフェスティバルが突出していることから、プロジェクト FUKUSHIMA!といえば8・15のフェスティバルと思われがちだが、プロジェクトの活動はそれにとどまらない。
2011年のプロジェクトFUKUSHIMA!の活動には、大きく4つの柱がある。

  • 学びの場としての『スクール FUKUSHIMA!』
  • 自ら情報発信するためのメディア『DOMMUNE FUKUSHIMA!』
  • 作品発表の場であると共に支援の窓口となる『DIY FUKUSHIMA!』
  • 人が集い、福島の未来を語らう場としての『フェスティバル FUKUSHIMA!』

スクールFUKUSHIMA!
過酷な福島の現状と向き合いながら、福島でどう生きていけばいいのか。その問いは、福島の中だけの問題ではなく、フクシマを抱える日本、FUKUSHIMA を抱える世界が直面している問題と言えるだろう。

スクールFUKUSHIMA!という学びの場をプロジェクトの活動の大きな柱に据えたのは、そうした切実で根源的な問いを、一緒に考えていきたいという思いからである。そこで、フェスティバルの前後に、スクール FUKUSHIMA!の一環で、一般から参加 者を募ったワークショップを複数開催した。プロジェクトに参加する音楽家、詩人、アーティスト、研究者らと、ともに学び、ともに作品を制作する場を通して、従来の生徒と先生の関係を越えた多様な活動を展開している。

以下、これまでに開催した各スクールの日付と会場、講師を記す。

○詩の学校
2011年7月30日、8月7日
福島市 福島学院大学駅前キャンパスにて
講師:和合亮一

○音楽の学校
2011年8月7日、8月13日
福島市 飯坂温泉旅館清山にて
講師:大友良英

○市民科学者養成講座
2011年8月3日
福島市佐平ビル8F 会議室
講師:木村真三博士

○子ども放射線教室「キュリー学園初等部」
2011年11月23日
福島市 四季の里
講師:木村真三博士

○大友良英の音の学校
2011年12月16日
福島市 旧堀切邸
講師:大友良英

DOMMUNE FUKUSHIMA!
福島のありのままの姿を伝えるため、自らのメディアを持ちたいと、プロジェクトの発足時点から大友や後に支局長を務めることになる郡山市在住の森彰一郎らは考えていた。その動きに素早く対応したのが、インターネット放送局として圧倒的な知名 度と人気を誇る DOMMUNE(http://dommune.com)を主宰するアーティスト/デザイナーの宇川直宏だった。震災後にいち早く被災地支援を掲げ、震災5日後から義援金を募る放送を始めるなど、文化の面から震災に取り組んできた宇川は、大友の宣言に呼応するように Ustream放送局 DOMMUNE の福島支局として、いわば暖簾分けすることを決断し、放送のノウハウ提供も含め迅速かつ深く尽力してくれた。ちなみに、プロジェクトFUKUSHIMA!のフキダシの形をしたロゴマークは宇川の手によるもの である。

開局は、プロジェクトFUKUSHIMA!立ち上げの記者会見と同日の5月8日夜。郡山市のコミュニティFM、ココラジの協力により、マンションの一室を改造したスタジオを拠点に、月に1〜2回、日曜夜に不定期での放送を開始した。

初回放送の最中にも大きな余震に見舞われたり、コミュニティFMラジオとのサイマル放送であるため、定時的に福島県内の放射線値がアナウンスされるなど、緊張感の伝わる放送は、県内外からも大きな注目を集め、1回の放送でのべ1万人以上の視聴 者を集めることも多い。震災後1年までの間に、放送は13回を数える。仙台メディアテークの学芸員である小川直人を司会に、プロジェクトのメンバーと地元福島の農家、 研究者や市民、さらには飯舘村村長らとが各回ごとに設定されたテーマに基づいたトークを行うパートと、県内外のミュージシャンによるライブやDJのパートでおよそ 4 時間の放送が行われている。これまでの放送のラインナップはプロジェクトのウェブサイトを参照してほしい。

DIY FUKUSHIMA!
プロジェクトは非営利かつ特定の企業からのスポンサードも受けない形で実施されており、主な活動資金は行政や文化系財団からの助成と一般からの寄付金によっている。

そこで、プロジェクトの支援金の窓口として、プロジェクトに関心を寄せる音楽家たちの作品配信を行う「DIY FUKUSHIMA!」をオフィシャルサイト上に掲載した。プロジェクトに深く賛同し、大友らと共に行動してきたシンガーソングライター・七尾旅人が中心になって立ち上げたインディペンデントな音楽配信システム「DIY STARS」のシステム提供を受けて開設された DIY FUKUSHIMA!では、現在までに20組以上のアーティストの音楽作品、映像作品などが提供されている。震災からちょうど1年後 の段階で、1,629,810円の支援が集まっている。提供される楽曲等の作品は、プロジェクトのウェブサイトを参照されたい。

7. まとめと今後のプロジェクトFUKUSHIMA!

昨年春先のプロジェクト始動の時期を振り返ってみるに、あの時点では原発事故の影響に関して確たることがわからず、少々大げさかもしれないが、筆者を含め、コアスタッフも一種のパニック状態に陥っていたのではないかとも思える。そんな中でも、 大友が東京芸術大学の特別講義で発した「文化の役割について」というメッセージとその後の行動は、震災後の世界で文化・芸術に携わる人間にとっての指針となるような、強い共感を呼ぶものだった。福島に暮らす人々に寄り添いながらも、ポジティブなFUKUSHIMAの未来像を描くことで、不名誉なFUKUSHIMAの名を転換していくこと。そのことが、科学や政治だけではなしえない文化の役目であるとの大友のメッセージに共感した者が無数のボランティアスタッフとして集まった。プロジェクトFUKUSHIMA!から発信されるメッセージはただちに英語に翻訳され、世界へ発信された。それを読んだチェルノブイリのNGO からコンタクトがあるなど、世界各地から反響を得ていることからも、プロジェクトは一定のよいスタートを切ることができた のではないかと思われる。

この極めて困難な状況の中で、ひとまずの成功と言ってもよいような成果を残しているのには、プロジェクトFUKUSHIMA!を中核で構成するメンバーがもともとインディペンデントな活動をしているミュージシャンだったことが大きいように思う。国も行政も企業も、大きな組織が制度疲労ともいうべき機能不全に侵され、震災後の混乱に的確に対応できていなかったことに対し、もともと独立した個人として、自分の意思で行動し、他者とネットワークを作ることに長けていた大友や遠藤らインディーズミュージシャン、独立した音楽レーベルオーナーなどのコアメンバーは、皆混迷を 極める福島の状況に迷いながらも自らの意思で状況に対応して行動することが比較的容易だったのではないだろうか。その意味では、厚労省傘下の研究機関である独立行 政法人労働安全衛生総合研究所の職を辞して事故直後の福島の調査に入った木村真三博士も、インディーズ研究者と言うことができるかもしれない。そうした共通項が、 専門分野の違う様々な人々を FUKUSHIMA!の名の下につなぎあわせたような気がするのだ。

一方、10月9日のNHKの番組「ETV特集 希望をフクシマの地から〜プロジェクトFUKUSHIMA!の挑戦」の放送後、ツイッターを中心に様々な意見が交わされたことも付記しておく必要があるだろう。上述のような経緯を辿りながら会場線量の公開、 大風呂敷などの対策を施した上で開催に至ったフェスティバルであったが、番組の放送をきっかけに、無用な被曝を増やすことにつながるとして福島でのフェスティバルの実施そのものに異義を唱える声が再び聞かれた。プロジェクトとしては、放射線の問題に関して、ウェブサイトでの情報提供や大風呂敷などの対策、さらにスクール FUKUSHIMA!の一環としての「市民科学者養成講座」や「子ども放射線教室 キュリー学園初等部」など、トータルで取り組んでいこうと考えているため、一つ一つの批判にこたえることはしないが、無用な被曝を防いでいくのは当然のことであり、そうした意見も今後の活動に活かしていきたい。

私見だが、現代詩の代表的な賞を受賞しつつも福島に住まい、地域に根を張って活 動してきた和合亮一と、還暦を過ぎた現在も年間100本以上のライブツアーで日本全国をくまなく巡っている遠藤ミチロウと、数百に上る国・地域をまたぎながら国際的 な音楽活動を続けている大友良英という、共同代表を務める3人それぞれが発する「ふくしま」の言葉は微妙に違った意味を持っているのだと思う。文字で書くならば、和合の「福島」、遠藤の「フクシマ」、大友の「FUKUSHIMA」といったところか。筆者自身、フェスティバル開催の頃までは、正直に言えば、プロジェクトの内側にいなが らその微妙な差異がある点に若干の違和感を感じていたような気がする。そもそも福島で「福島」と言ったときには、文脈によってそれが福島市を意味するのか、福島県を 意味するのかが変わってくる。福島県いわき市出身の音楽家、ASA-CHANG が、地元いわきにこだわりながらプロジェクト FUKUSHIMA!の動きと並走する「プロジェクトFUKUSHIMA! IWAKI!!」の活動を行っているのも、福島県内で「ふくしま」の持つ意味が地域によってまちまちであることを表しているように思われる。一方、世界 から見れば、「日本」も、事故後世界の隅々まで広く知れ渡ってしまった FUKUSHIMAとほぼ同義に語られることもあるだろう。こうした意味のズレは、「ふくしま」を共有する各人それぞれにとって存在し、その間には無数のグラデーションがある。

放射能を陸に海にまき散らした事故後を生きる私たちは、言うなれば日本、ひいては世界と「福島圏」を共有しているとは言えまいか。福島圏の境界線は、行政区の境界線とは違い、人それぞれによって異なっているはずだ。その「福島圏内」の複雑なグラデーションの中で、大友の言う「新しい日常」を私たちはどのように獲得していけるのか。安全か危険か、除染か避難か、推進か脱・反か…。そのような安易に設定される二項対立の分断に陥ることなく、粘り強く議論を重ね、考え続けていくことが、新しい日常を生きる私たちに課せられた大きな課題なのではないだろうか。

震災から1年が経つ今、それぞれの「ふくしま」が、それぞれの意味を持ってグラデ ーションとなっていることこそが、かえってプロジェクトFUKUSHIMA!の強みとなるかもしれないと思えるようにもなってきた。異なる者同士がいかに共存しあい、ポジティブな未来を創造していくことができるか。福島の過酷な現実に向き合いながらも、和合の言葉を借りれば「福島に蓋をせず」、福島の内と外をつなぎ、時に祭りもしながら、学び、意見を交わし、発信していくことで新しい未来を描き、作っていくことは、まさにプロジェトFUKUSHIMA!が目指しているものである。

変化しつづける福島の状況の中で、2年目のプロジェクトFUKUSHIMA!がどう動 いていくか。私たちはこれからも休むことなく考え続けていかねばならない。まずは年内のNPO法人化に向けて、手続きが進められている。今年も夏に予定しているフェスティバルは、昨年と同じ場所で同じことをやることにはならないだろう。今のところ、期間を12日間と延長させつつ、複数の場所で規模も内容も様々なイベントを展開することになる予定である。ぜひ今後の活動に注目してほしい。そして、このFUKUSHIMAがあらわにした様々な問題を、それぞれの立場から考えていってほしいと思う。

プロジェクトFUKUSHIMA!実行委員会
山岸清之進

<写真>
●菊池修 Osamu Kikuchi
●菊池良助 Ryosuke Kikuchi
●梅原渉 Wataru Umehara
●遠藤貴也 Takaya Endo
●シギー吉田 Shiggy Yoshida
●岡本彰生 Akio Okamoto
●地引雄一 Yuichi Jibiki

8.15世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!
フェスティバルFUKUSHIMA!2011 Photo gallery
8.15世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA! 各地イベントリスト & MAP

フェスティバルFUKUSHIMA! 2011 終了報告メッセージ
遠藤ミチロウ
大友良英

[参考資料]
・「プロジェクト FUKUSHIMA!2011/3.11-8.15 いま文化に何ができるか」磯部涼
K&Bパブリッシャーズ
・「クロニクル FUKUSHIMA!」大友良英 青土社
・「詩の礫」和合亮一 徳間書店
・雑誌「真夜中・14」 リトルモア
・雑誌「思想地図 β・vol.2」 コンテクスチュアズ
・雑誌「SWITCH・vol.29」 スイッチ・パブリッシング
・雑誌「新潮 45・2011.8」 新潮社
・雑誌「アルテス・vol.01」 アルテスパブリッシング
・番組「ETV 特集 希望をフクシマの地から〜プロジェクト FUKUSHIMA!の挑戦」NHK 2011.10.9 放送
・番組「報道特集 連詩と音楽…福島 1 万 3000 人の叫び」 TBS 2011.9.10 放送
・プロジェクト FUKUSHIMA!オフィシャルサイト
http://pj-fukushima.jp
・福島市 震災関連情報サイト
http://shinsai.city.fukushima.fukushima.jp
・DOMMUNE
http://dommune.com
・DIY STARS
・ブログ「大友良英の JAMJAM 日記」
http://d.hatena.ne.jp/otomojamjam/
・大友良英ウェブサイトより「文化の役目について:震災と福島の人災を受けて」
http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html
・ウェブマガジン Realtokyo より 小崎哲哉 Out of Tokyoの3つの記事
 「『フェスティバル FUKUSHIMA!』をめぐって」「フェスティバル FUKUSHIMA!」
 「プロジェクト FUKUSHIMA!」
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_232/
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_231/
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_230/
・ツイッター 大友良英
・ツイッター 和合亮一
・ツイッター 遠藤ミチロウ